こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

私が子どもの頃にはまだ予防注射の集団接種というものが行われていました。

その日は幼稚園のお教室が臨時の処置室となる中、片腕をむき出しにした子どもたちが列を作り、その列の先頭では年配のお医者さんが注射を打っている、という具合で、泣き出す子もいれば、注射針の痛みに耐えて周りから褒めそやされる子どももいて、非日常的な高揚感めいた雰囲気に満たされていました。

私にも痛みに耐えて周囲からの尊敬を得たいという、社会的な欲求があったのですが、針を自らの肉体に意図的に突き立てられる、という状況にあって恐怖を感じずにはいられず、寧ろ率先的して泣き出してしまう(そして周りの子のつられ泣きを引き起こしてしまう)という、当時体は大きい割にナサケナイ子どもでもありました。

 

私は6歳になったばかりの時でした。恒例の集団予防接種にどうにも耐え難い気持ちが湧き上がってくるのを禁じえず、かといって泣くのも恥ずかしく、どうしようもなくなって、するりと注射を待つ子どもたちの列から逃げ出したのです。

私の通っていた幼稚園はカトリック系の幼稚園で、園長先生は慈愛に満ちた白髪のおばあちゃま先生でした。園長先生はお庭に座ってイエス様のお話を聞かせてくれましたし、担任も穏やかなお姉ちゃま先生で、上手にピアノを弾いて一緒に合唱したり、私の作った粘土やお絵かきに目を留めて、優しく褒めてくれたりしました。

今、逃げ出した私を、この二人を含め良きサマリア人であろう先生たちは大慌てで、それこそサタンのような勢いで追い掛け回すことになりました。なにしろ、私も必死で逃げますので、先生方にはおいそれとは追いつけず、そのうち、この状況に感化されたお調子者のチエちゃんも脱走して、周りの子どもたちも興奮してやいのやいのはやし立てますので、その場は収拾のつかないことになってきました。

チエちゃんが一緒に逃げていることで、私の中には不思議と力強い気持ちがみなぎってきました。「ヨシ、どこまでも逃げてやろう!」みたいな気持ちです(今考えると、どこに行くつもりだったんでしょう)。不思議と疲れも感じません(今では朝おきてベッドから降りるだけでも疲れるのに)。

でもしばらくすると、チエちゃんはサマリア人たちにあえなく捕まってしまいました。チエちゃんが先生から片腕を掴まれて、「もはや、これまで」という感じでうなだれているのが目の端に見えた途端、私は自分でもびっくりするような無力感に捉えられました。私は唯一の仲間を失ったのです。そして、そのすぐあとに私自身も園長先生からお縄を頂戴する羽目になりました。

こうして私の逃走劇は失敗に終わったわけですが、この話にはちょっとした続きがあります。

この半年後、私は小学校入学を控えて、診療所で予防注射を打つことになりました。重い気持ちで処置室に入ります。そうして注射針が近づいてきて、針の先端が腕に入るときのちょっとした抵抗感、そのあと腕の中がカチンと硬くなる感じ、灼熱感のようなもの、そういったもの奥歯を噛み締めつつ感じています。そうして、看護婦さんに「はいオシマイ」と言われて、そういえば泣くタイミングを失ったことに気がついたのでした。

 

こんなふうに、やるだけやるとハラがすわるというか、そのあとのことが比較的落ち着いて取り組めるようになることはよくあることです。私たちの行動の中には実はたくさんの要素があってそれが一つひとつ理屈ではない学びにつながるのでしょう。

心理療法やカウンセリングをはじめようとする時、多くの人は抵抗を感じたり、気が進まない気持ちになります。そういう時は思い切ってセッションをお休みしたり、治療の場から離れてもいいのではないでしょうか。

そうして、なんとなくハラが決まったら、また戻って来ればいいと思っています。

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ではまた!

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投稿: 飯田橋 サードプレイス

東京千代田区飯田橋にあるカウンセリングルーム、サードプレイスのブログです。

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